『仏教と日本人』を読んでまた少し考えた

『仏教と日本人』阿満利麿

このあいだ読んだ『日本仏教史』とよく似たテーマを取り上げた本。

『日本仏教史』のテーマを橋本治はこう解説していた。

この本は、「日本の仏教の歴史を書く本」ではなくて、「日本にやってきた仏教というものが”日本の仏教”という独特なものに変化 してしまったのは何故か?何故日本人はそのことを不思議に思わないでいるのか?」ということの理由を探ろうとする本です。

一方、本書については、著者が次のように述べている。

本書で、私が試みようとするのは、多くの日本人が仏教という言葉でイメージする事柄のすべてが、まぎれもなく仏教なのであり、それは、インドに発し、中国や朝鮮半島で発展した仏教とは、種々の点で異なりながらも、しかし、仏教の筋は貫かれている、と言う事実を紹介すること、にある。一言でいえば、日本人が作った仏教とはどのようなものであったのか、を描きたいのである。(P10)

いずれにしても、仏教はすっかり日本文化の血肉と化しているだけに、純粋の仏教とか本来の仏教とか、という議論はあまり意味を持たない。

日本人が「仏教」と呼ぶものはどのようなものでも「仏教」なのである。大切なことは、今、私たちの目前にある「仏教」がどのようにして生まれたのか、その道筋を明らかにすることであろう。その道筋にこそ、日本人の想像力がはたらいているのである。(p216)

日本の仏教が外来のものであり、しかもそれはいまや全くオリジナルと違っている。

それにもかかわらず、仏教は日本人に根付いている。どういう経緯で仏教が日本に根付き、どういう変容を辿ってきたのか、それを理解しなければ、現在の自分を含む社会、日本人の枠組みが把握できないだろう、というわけである。

同じようなことを『日本仏教史』でも書いた気がするけど。

著者はもともと日本に存在した自然宗教、つまり神道ではない「カミ」に対する信仰に、仏教がその弱点を補うようなかたちで入ってきた、と推測する。

例えば死者について。

ふりかえれば、仏教を知る前の日本人は、死者の扱いについて、ほぼ忌避に終始したと考えられる。肉親であっても、死ねば、場合によれば祟りをなす不気味なモノになるのであり、日常の暮らしと一線を画した世界に封じ込めておく必要があった。だが、仏教徒であることで、死者も祀れば恐ろしくないことを学び、いつの頃からか、先祖祭祀の観念も生まれてきた。(p51)

地蔵、地獄と極楽の位置関係、日本の僧侶のみが肉食妻帯であること、仏像、神道との関係、そして葬式仏教。

現代の日本人の基層にある仏教が伝来する以前のどういう位置に入り込んできたのか、そして、伝来以前の自然宗教の影響によってどのように仏教が変わったのかを述べている。

柳田国男が何度も引用されている。

柳田国男についてもほとんど読んだことがないので、ちょっと興味が出てきた。

ついでに。

地蔵についての研究で、『賽の河原地蔵和讃』の物語が出てくる。

賽の河原の話については漠然としか知らなかったが、なかなか物語としてメリハリにとんだ、いい話である。

幼くして亡くなった子供の霊が行き場をなくしていて、しかも鬼に虐待される。

鬼が虐待する理由は親の嘆きと、子供が母に乳が出ないときに母の胸を打って母を苦しめたということ。

それを救いにやってくる地蔵菩薩。

物語の基本形だなあ、と思ったりした。

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