『詩とことば』で詩に興味を持つ

荒川洋治

 

ぼくは詩が読めない。
読もうとするのだが、なにか違和感があって、結局うまくいかない。
とくに現代詩、という世界にはなにか必要とすべきものがありそうな気がするのだが、どうしても入り込めない。
すばらしい散文(『文芸時評という感想』)を書いたこの詩人が、詩について書いた本だというから読まなくてはいけなかった。
詩は文章表現としては散文と比べると異常なのだろうか。
むしろ「散文が異常ではないのか」という。

 白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。
というのは散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるとき、「白が、いくつか」と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。実は「何軒かの家だ。屋根、白い」あるいは「家だ。白い!」との知覚をしたのに、散文を書くために、多くの人に伝わりやすい順序に組み替えていることもあるはずだ。
詩は、その言葉で表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人が一人も存在しないこともある。「白い屋根の家が・・・・・・」の順序で知覚した人が、どこにもいないこともある。いなくても、いるように書くのが散文なのだ。それが習慣であり決まりなのだ。
散文は、つくられたものなのである。

目からうろこである。
散文と詩のちがいについて、これだけわかりやすく説明されたことはなかったので。
情報を伝えるためだけなら、散文はまちがいなく効率的だ。
しかし、文というものは情報を伝えるためだけでいいんでしょうか?ということですよね。
散文を貧しくしないためには詩のことを考える必要がある。
後半には現代詩を書いた人たちについてのガイドなどもあり、詩を読んでみよう、という気になった。
とりあえず、作者の詩集を手に入れることにしようと思う。