『パウロ 十字架の使徒』

青野太潮 岩波新書

 

パウロといえば確かキリスト教の基礎を作った人ということは知っていた。
世界で初めて目から鱗が落ちた人として有名。
しかしそれしか知らない。
どんな人なのかわからなかったので読んでみた。
第一章はパウロの生涯、第二章は手紙の概略が書かれている。
パウロは生前のイエスに出会っていない。
最初はキリスト教を迫害していたが、「回心」してイエス・キリストの福音を宣教した。
この伝道旅行は総距離およそ2万キロだそうだ。
すごい。
最終的にユダヤ人に捕まってしまいローマに護送されて処刑されてしまったらしい。

とてもおもしろくなるのは第三章「十字架の神学」第四章「パウロの思想と現代」。
イエス・キリストの「意味」についてよく聞くのが次のような話。

今日のキリスト教会においては、贖罪としてのイエスの十字架こそが決定的なのだ、それなくしてはキリスト教の独自性は失われてしまう、と考えられている。(略)
イエスが十字架上で流した血を「究極の代償」として理解する「イエスの贖罪」という捉え方は、ユダヤ教における伝統的な贖罪論の延長線上にある。イエスはわれわれ人間の罪を贖うために、自ら「生け贄」となって神の前に立ち、その犠牲的な「死」によって神に義とされたのだという捉え方である。ここで重要なのは「イエスの贖罪」という捉え方には、イエスは何もかもすべてを見通した上で自ら粛々と死の道に就いた、という理解が含まれている。(p178)

イエスは人間の罪を贖うために自ら生け贄になって、復活して、というストーリーにひっかかりがあった。というより意味がわからなかった。

「イエスは何もかもすべてを見通した上で自ら粛々と死の道に就いた」ならば、すべて演技だったことになる。
死んでも復活するもんねーと言いつつ十字架に架けられたのか。
そのような「演技」から信仰が生まれるものだろうか?というのが私にとっての違和感だった。
しかし、そうではない、と青野さんは(そしてパウロは)言う。
そもそも、イエスは粛々と死の道に就いたわけではなかった。

さて、第六刻(正午)になると全地を闇が襲い、第九刻(午後三時)におよんだ。そして第九刻に、イエスは大声で叫んだ、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは訳せば、わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか、という意味である。すると、傍らに立っていた者のうち何人かが、これを聞いて言い出した。「見ろ、エリヤを呼んでいるぞ」。そこである者が走ってゆき、海綿を酢で一杯にした後、葦[の先]につけ、彼に飲まそうとして言った。「エリヤがこいつを降ろしにやってくるかどうか、見てやろうではないか」。しかしイエスは大声を放って息絶えた。(マルコによる福音書15章33-37節)(p112)

実に無残に人間らしく死んだのだ。

その後復活する「強いキリスト」ではなく、十字架上で無残に刑死したイエスに踏みとどまるのだ、と青野さんは言う。

無残な姿をさらし続けるイエス・キリストとともに、十字架を担い続けていくこと。自らの力に頼り、自らの業績を頼みに生きる「強い」生き方ではなく、イエスとともに、そしてこの世の苦難を強いられている人たちとともに十字架を担い続ける「弱い」生き方の中にこそ、本当の意味での「強さ」が、そして「救い」が逆説的に存在する。「イエスの十字架」以外は誇らないと語るパウロは、苦難の多い道かもしれないが、そうした逆説的な生を選び取ろうではないか、とわれわれに訴えているのである。(p158)

腑に落ちるものである。

価値を転倒させるというのが文学のひとつの役割だとすると、キリストの刑死は宗教的というより文学的な事件であった。

今さら気づいたけど。