『生きる哲学』

若松英輔 文春新書

若松さんの本を人に伝えるのは難しい。 『イエス伝』もそうでしたが、わかりやすい答えを出してくれる本ではないからです。

読書というよりは、むしろていねいに作られた何皿ものおいしい料理をごちそうになった、という感じがします。

哲学は、世に言う哲学者によって語られるとは限らない。(「序章」)

真に哲学者と呼ばれるべき人がいるなら、その人物は単に、学校で哲学を勉強した人でもなければ、哲学理論を展開する人でもない。むしろ万人のなかに「哲学」が潜んでいることを思い出させてくれる人物でなくてはならない、迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光は、すべての人に、既に内在していることを教えてくれる人でなくてはならない。(第1章)

本文でも幾度かふれたが、ここでの「哲学」は、哲学者によって語られる言説に限定されない。それは、人間が叡智とつながりをもつ状態を指す。このことは、「生きる」ことが不断の状態であることと深く呼応する。同時に、「哲学」とは、単に語られることではなく、生きることによって証(あか)しされる出来事だともいえる。(あとがき) 若松さんはそんな「哲学」を捉えた人たちとして、須賀敦子、彫刻家の舟越保武、原民喜、孔子、染織家の志村ふくみ、堀辰雄、リルケ、神谷美恵子、ブッダ、宮沢賢治、ヴィクトール・フランクル、料理研究家の辰巳芳子、皇后、井筒俊彦、そして彼らを取り巻く人々を取り上げていきます。

彼らはしばしば私たちの五感を超える部分にたどり着きます。

志村は、色は「匂う」という。(中略) 感覚はいつも複合的に働く。ここに描き出されている感覚は彼女に特異なものではない。むしろ、近代以前の日本人にはほとんど共通の感覚だった。そうでなければ「敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花」と本居宣長が大和心を歌ったような和歌も生れる事はなかっただろう。(第5章)

しかし、生命を感じるのは五感なのだろうか。現代人はもうそれを疑わない。むしろそのために、五感で動きを感じることのできないものをすでに「生きている」とは認めなくなってしまった。私たちは、生命が何であるのかをしっかり考える前に、生命を五感で感じるものに限定してしまった。しかし、ブッダの考えはまったく違う。(第9章)

現代人が捨て去った、感覚を超える物事の始原の場所があることや、死者は生者とともにいるということ。 若松さんは彼らが社会で働きながら(あるいは戦いながら)得た「哲学」を書物から取り出して、そっと静かに料理のように並べていくのです。

「書く」とは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。「書く」ことに困難を感じる人は、この本のなかで引用されている先人のコトバを書き写すだけでもよい。もし、数行のコトバをほんとうに引き写したなら、その人は、意識しないうちに文章を書き始めているだろう。そして、こんなコトバが自分に宿っていたのかと、自分で書いた文章に驚くに違いない。自分の魂を、真に揺るがすコトバはいつも自分から発せられる。人は誰も、コトバという人生の護符とともにある。コトバは見出されるのを待っているのである。(終章)

コトバを読み、書くことへの畏怖を感じながら、若松さんはこのような美しい本を作ったのでしょう。 私も遅まきながらコトバを見出すことができるのでしょうか。