『霊性の哲学』

若松英輔 角川選書

この本で章を立てて論じられるのは山崎弁栄(べんねい)、鈴木大拙、柳宗悦、吉満義彦、井筒俊彦、谺雄二です。
名前を知っていたのは鈴木、柳、井筒くらいですが、著書はきちんと読んだことはありません。
他にもたくさんの名前が登場します。
ディルタイ、シュライアーマッハー、内村鑑三、トマス・マートン、スウェーデンボリ、リルケ、神谷美恵子……
私の不勉強につき、知らない人ばかりです。
彼らに共通していたのは「霊性」を希求していたこと。
若松さんは霊性を次のように定義します。

「霊性」とは宗派的差異の彼方で超越者を希求すること、あるいはその態度を意味します。

「霊」というとつい心霊現象を連想してしまいますが、この本でいう霊は、そういういかがわしいものではありません。別の言葉で言えば「いのち」と表されるようなこと(それはそれでいかがわしく聞こえる気はしますが)。
宗教的でありながら宗教を超え出てしまった人たちのことを若松さんは記していきます。

たとえば山崎弁栄は明治から大正にかけて活動した宗教者です。
浄土宗の僧侶として市井で活躍しますが、そのうち浄土宗を超え出て「宗教改革」へ踏み出します。
そのときの山崎の考え方は、もはや仏教という枠にとらわれておらず、キリスト教やイスラム神秘主義などとも近づいたものになっていたのではないか、といいます。
「弥陀とキリストの神とは同体の異名。絶対なる神に別体あることなし」と山崎は書きました。
このとき、宗派を超えた「超越者」に山崎は触れていたのでしょうか。
若松さんはこういいます。

霊性は特定のものを指さしたり、つかんだりはしない。一方、何かを指さすように、宗教を通じることによって人々に届けられることがしばしばある。どの宗教も霊性という源につながっていることを忘れてはならないのだ。

霊性から遠くなっている私には少し難解な本です。
井筒俊彦の本を読むにあたって若松さんはこういいます。

『神秘哲学』が若き日の代表作であるのに対し、『意識と本質』は哲学者井筒俊彦の高みを示している主著です。ですが、この本は一見すると難しい。しかし、よく付き合ってみるとそのようなことはないのです。優れた本は人間と同じように付き合わなければならない。

若松さんが山崎弁栄を知ったのは、岡潔のエッセイに書かれていたからだそうです。
岡は山崎について「私たちは何を措いてもこの人を知らなければならない」と書いていました。
そして私が山崎弁栄を知ったのは若松さんの本を読んだから。
この本は霊性を語ると同時に、本を新たな読者につなぎ直すための本でもあると思います。
「知らなければならない」人を教えてもらったので、その人の本を「人間と同じように付き合」いながら読んでいけばよいのかもしれません。

気に入った言葉を抜き書きするのも読む楽しみなので、書いてみます。
谺雄二はハンセン病差別と戦い続ける活動家であり、詩人でした。
彼はあるインタビューでこう語ります。

私はハンセン病になるために生まれてきたような気もするんだ。この病気になってはじめて「国家とは何か」を問う立場になった。だから、生まれてきたのは大変良かった。そこまで考えるに至って良かったということだ。だから私はそういう自分に誇りを持っている。そうじゃないと、やっていけないさ。

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