『井筒俊彦 叡智の哲学』

若松英輔 慶應義塾大学出版会

井筒俊彦さんの訳した岩波文庫の『コーラン』を持っています。
ただ、全く読めず本棚に置いてあるのですが。

私にとっては井筒さんはイスラム専門の学者という認識だったのですが、若松さんはこういいます。

井筒俊彦をイスラーム学者と呼んでも、過ちを犯したことにはならないが、この人物を、単に言語哲学者と呼ぶ場合と似て、窮屈な感じが残る。こうした呼称は、あまりに実相を覆い隠してはいないだろうか。彼自身は、留保なく、イスラーム学者と自称したことはないのである。

そして井筒さんの著作とともに、イスラームだけではなく、言語そして深層心理にまで迫った仕事を論じます。
多岐にわたった井筒さんの仕事のテーマのひとつに「コトバ」があります。

「存在はコトバである」、この一節に井筒俊彦の哲学は収斂される。「存在」とは、事象が在ることではない。ここでの「存在」は、イブン・アルビーが用いたように絶対的超越者の異名である。「コトバ」とは言語学におけるラングやパロール、シニフィアンとシニフィエのテーゼにも収まらない。エクリチュールとも異なる。「存在」が「存在者」を「創造」するとき、「存在」は「コトバ」として自己展開する。コトバとは事象が存在することを喚起する力動的な実在、すなわち存在を喚起する「エネルギー体」に他ならない。

また、こうもいいます。

 「コトバ」が意味を分節する、と彼は認識する。「コトバ」とは、万物の基底、「根源的絶対無分節のリアリティー」と同義である。すなわち「コトバ」が万物を生むと井筒は考えている。

難しそうですが、ヨハネによる福音書の冒頭を読むと分かる気がします。

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(新共同訳。孫引き)

井筒さんは、言葉と事象の関係について、日常の意識では「事象→言葉→意味の順序に従って生成するように映る」けれども、深層意識界では意味→言葉→事象の順に現れる、といいます。
「花があって花という言葉が生まれる」のではなく、「花という「意味」の「範型」に形づくられて、花は誕生する」というのです。
このあたりのスリリングな考え方は面白いです。
井筒さんの主著である『意識と本質』をきちんと読んでみたいですね。

若松さんの著作ですので、井筒さんの同時代人はもちろん、プロティノスやイスラーム神秘学者たちなど、「共時的な」人物もおおぜい召還されます。
そしてそのほとんどを私は知りません。
イスラーム神秘学や大川周明のことをもっと知りたくなりました。
若松さんの本を読むと、読書とは古くて新しい人に出会えることだ、とあらためて感じます。

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