『嵐が丘』に呑み込まれた

『嵐が丘』E・ブロンテ(鴻巣友季子訳) ようやく読み終わった『嵐が丘』だが、私が本を征服した、というよりは、本に呑み込まれた感じ。

こんなにすごい小説だったんだ、と改めて思いました。

詳しくは訳者の解説がおもしろいのだが、その解説「『嵐が丘』という永遠のスフィンクス」はいくつかのまとまりになっていて、そのタイトルを書いておくと 1 『嵐が丘』とリアリティ 2 語りのスタイルと構成の魅力 3 ずば抜けたカメラワーク 4 ネリーという触媒(エージェント) 5 コントラストとシンメトリー (以下略) 特に2と4については先にも触れたとおりで、この構成のおかげで読み進められた部分が大きい。

しかもネリー、ロックウッドという二人の聞き手(語り手)がいることで、モノローグから脱していることから、小説に奥行きというかある種「わからなさ」ができている。

これがよい。

また、ネリーの触媒、つまり観察者でありながら関係に関与してしまうという立場とは、読んでいると思わず「おいおい、やり過ぎだぜ」とか「なんでそんなことするのかなあ」とか突っ込みたくなる思慮のなさがあったりして(実際に本に「おいおい」って書き込んでしまった)、それによって私はますます引き込まれていくというもの。

まさに「ネリーとはけだし偉大な発見だった」。 解説で改めておもしろさが分かったのは5で、シンメトリーにしようという試みが端々に行き届いていて、特に象徴的なのは登場人物の相関図(家系図)がきれいにシンメトリーになる。

その計算があざとくない。

小説内の感動とむしろシンクロしているのだ。

そしてヒースクリフ、という悪魔のような人間。

これを仮に私が書こうとでもしたならば、底の浅い悪か、結局ほんとはいい人でした、みたいなかたちにしか書けなかっただろう。

だが、最後までヒースクリフは謎であり、しかもそれにもかかわらず最終的にどこか(俗っぽくいえば天国か地獄かキャサリンか)へ近づき喜びを感じていく。

かれがどこへ向かい、何から喜びを得ているのか言葉で正確に理解できないが、明らかに私は納得させられていた。

ここで答えを言葉で出すことはむしろ簡単そうだが、誤ったやり方にちがいない。

小説の総体で答えを出しているから、頭と言うよりは身体で私は感じているのだと思った。

それがずしっと腹に来る。 とにかくすげえ。

こんな小説が1847年に書かれていたんだなあ。