『夜長姫と耳男』を熱を出しながら読む

坂口安吾

最近ずっと短篇小説ばかり読んでいる。

しかも一人の作家の短篇集を読むのではなく、ひとつの短篇集のうちの一作品を読み、また別の短篇集の一作品を読む、というつまみ食いみたいなことをしている。
これはたとえば音楽家のアルバムを聴く際に、作者は全体としてひとつのかたちとなっているものを提示したいのに、そのうちの一曲だけ聴いて、また別の人の曲を聴いて、という感じであまり作者としてはうれしくないのかもしれない。
ただ、今の私はそうやっていろんな作者の「声」や「世界」を体験することを求めているので、許してもらうことにする。

そのうち落ち着いたら誰かの本にすがりつくことになるのだろうけれど。

今回のこの小説は、一度読んだらそのすごさにはまり、今日一日実は熱を出して寝ていたのだが、ちょっと寝付けないときに久しぶりに読んでみて、またすごさに驚き、ついでに夢にまで出てきたという、とにかく強烈な作品です。

 

耳が兎のように大きく、顔は馬のようである「耳男」(ミミオ)は、若い仏像作りの職人。

かれがまだ13歳の「夜長姫」が16になるまでに仏像を作る、というはなしだが、「夜長姫」のキャラクターがすごい。

笑顔がすばらしい、だけど人の命をもてあそぶ悪魔的な女性であり、「耳男」は彼女を憎みながらも彼女の笑顔に完全に参ってしまう、というような展開。

二人の「愛」とは呼べないけれど、だけどやっぱりこれが愛だよな、という関係を坂口安吾は書いた。
こんな話を読むと、私がいかにふだん切羽詰まって生きていないか、ということを痛感してしまう。
そして、この話がとても夢に似ていることに気がつく。

私の友だちは不思議な夢を見る能力がある。

誰でも夢は見られるのかもしれないが、それをきちんと文章化できる人はそうはいない。

その夢の記述を読ませてもらったが、この小説ととても似ていた。

その夢の記述は日常の論理ではあり得ないことを、ただ淡々と記述しているだけだ。

そしてそれを逆に日常の論理で補填しようとしないところに潔さを感じたものだ。

この小説も同じで、日常の論理が使われるのは最低限で、原則的に夢の論理により話が展開していく。

耳を切り落とされたりするという事件が起こっても、それはあたりまえのことだとして提示される。

それに納得する。

さらに話が進んでいく。
だから、夢を見たのと同じ興奮がこの小説の読後にはあるのだと思った。

夢を神話と言い換えてもいいけど、とにかく坂口安吾はとんでもない奥深いところに手が届いていたのだった。

とにかくすごい。ラストがとてつもなく美しいが、引用すると読んでいない人に申し訳ないので引用しない。
なお、この小説は青空文庫でも読めます。