『あたりまえのこと』

倉橋由美子

 

倉橋由美子が小説について書いているということを知ったのでこの本を手に入れた。

厳しいです。

金井美恵子よりもストレートにばっさばっさと切り捨てる。

解説で豊崎由美さんが引用しているけれど、『ノルウェイの森』もこんなかんじで切られている。

 僕は今どこにいるのだ?  僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目に映るのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。 (村上春樹『ノルウェイの森』)

ここで長い小説は終わります。 「僕」は別に、「ここはどこ?私は誰?」と言い出すような老人性痴呆症にかかっているわけではなく、意識と感情だけで浮遊している人間にはこうなることもあり得るというフィクションを示しただけのことです。いかにもそれらしいフィクションですが、こんな夢みたいなことは本当はありません。小説の最後になって主人公がこんな夢の中に漂っているようでは、ここに至るまでの長い話を読もうという気力も萎えてしまいます。しかし作者が歌い手となって長い叙事詩を歌って聞かせたのがこの小説だと思えば納得がいきます。歌の終わりならこんな風でもよいのです。

倉橋由美子が言うことは、自閉的な小説はだめ、妄想はだめ、きちんとした文章じゃなきゃだめ、私小説なんてもってのほか、ということで、まったくもって至極まっとうなことしか言っていない。

 現代人は何かしら問題、というよりも精神的な病気や欠陥を抱えて苦しんでいなければならないという不文律ができあがっているかのようです。立派な人間、優れた人間では駄目で、賢い人間も駄目なら美男美女も駄目、平凡で大した取り柄はないけれども変わっていなければならないというのが現代小説の決まり事だとすると、こういう決まり事に支配されている小説家もあまり賢いとは言えなくなります。おそらくそういう小説家自身もその主人公並みにつまらない人間なのでしょう。

ここまで来ると私は小説家ではないけれども読者としてどこかで同じような気持ちでいることに気付かされて耳が痛い。

自我にこもってあーだこーだ言う小説を今まったく読みたくないのだけれど、それでいいんだな、と思ったりもした。

小説を読むために役立つ話が満載です。

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この記事を書いた人

m-betsuo(べつお)

やる気のない中年男性が、やる気を出そうとしています

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