『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』

武田砂鉄 青弓社

最近の若い人の間ではテレビ離れが進んでいるそうです。
若くない私もテレビはあまり見なくなりました。
そうすると、いったい誰がテレビを見張っているのか?
ナンシー関さんがテレビの批評をしていた時代がありました。
今は武田砂鉄さんがじっくり見てくれています。

理屈っぽい親戚といっしょにテレビを見ながら、ぐだぐだと話しているような感じの本です(誉めています)。
武田さんの文章を読むと、ほぼ全面的に共感してしまう自分にうろたえます。
批判する方向も(松本人志とか)、評価する方向も(神木隆之介とか)、わからないことも(YUKIとか)ほとんど似ている。

例えば、星野源に対するこの屈折した評価(というかこの本のすべてが屈折しているのですが)は、私のいたたまれなさをずばり言い当てられています。

偏屈な見方で仮想敵への戯言を繰り返し、それをエネルギーとして備蓄している私のような人間たちときわめて近くにいるのに、そこへ定住せずに、あちこちのフィールドに出かけて、丁寧に振る舞い、評価を得て、帰ってくる。こうなると、住まう場所がどうやら遠くないこちらはもう、何も言うことができなくなる。お疲れさまです、くらいだ。「森山直太朗と何が違うのかよくわかりません」なんて言えない。自分と近しい考えを持っている人、と何だかとってもえらそうな分析をしても「ありがとうございます」と笑顔で返してくれそうなたたずまいを前に、すっかり黙り込む。これはマズいことになった。

芸能人を肴にした言葉による高度な芸が、普遍的な批評になっている。
しかし、世の中にはこういう言い方に反発する人も一定数はいるのだろうな、と思います。
もっと素直に観れないのか、とか、芸能人の話で何を小難しいこと書いてんだ、とか。
しかし武田さんがファンキー加藤を酷評するように、私も素直なことがいちばんたいせつだという「無知性至上主義」を評価しません。
世の中を斜に見ないで何がおもしろいのか。

この本に問題があるとしたなら、武田さんの本を通してテレビを見たほうが、直接テレビを見るよりもずっとおもしろいということに気づいてしまうことです。