『イスラーム思想を読みとく』

松山洋平 ちくま新書

ときおり、イスラム教(イスラーム)についての入門書を手に取ったりするのですが、途中で投げ出してしまいます。
一日五回拝むとか、豚を食べたらだめだとか、マホメット(ムハンマド)はずいぶん年上の奥さんをもらったとか、知って得する知識が書いてあります。
だけど、なんか違うんだよなあ。

今を生きるムスリム(イスラーム教徒)は、いったい何を考えているのか?
どういう歴史的な経緯でそのように考えるようになったのか?
こういうことが知りたかったんだなあ、とこの本を読んで事後的に思いました。

お酒がやめられないからムスリムにはなれない?
そんなことはありません、と松山さんはいいます。

多くの日本人は、宗教に対して、心のなかで『信じるか/信じないか」という態度で向き合うもの──つまり、「信条の体系」──としてではなく、何らかの効能を求め、術として実践するもの──つまり「術の体系」──として接してはいないでしょうか。

私たちは「ある宗教の信者とは、その宗教の規範を実践している者のことである」と考えがちです。
しかし、イスラームは「心における真実の承認」、つまり心のなかで信じる、ということが第一に来ます。
規範を破ったからといって、ムスリムでなくなることはありません。
たとえ、罪を犯してもその人の信仰は消えないのです。

では、テロリストはどうでしょう。
彼らの行為はイスラームでは正当化されないとしても、彼らがムスリムかどうかということとは別の問題であり、やはり分けて考えなくてはいけないのだ、といいます。

イスラームは、クルアーン(コーラン)やハディース(ムハンマドの言行)に記載されている以外の規範は「解釈」により導き出されます。
その解釈の方法が思想、学問となっていきました。
解釈をするのは「ウラマー」と呼ばれる、イスラームの知識を持った学者たち。

ところで、イスラームにはキリスト教などと違って権威(例えば教会)により誰かを「異端」だと決めつけるシステムがありません。
「ウラマー」たちはもちろん発言力を有していますが、それも絶対的なものではありません。
前後で矛盾した解釈になっても、どちらが正しいとか誤りとか判断する機関がないのです。

「いろんな人がいて いろんなことを言うよ」(堀込高樹)。

イスラーム思想(スンナ派)には「思弁神学」と「ハディースの徒」という二つの対立軸があり、「ハディースの徒」から「サラフ主義」という思想が生まれ、さらにそこから「サラフ・ジハード主義」が生まれてきました。
過激派のムスリムは「サラフ・ジハード主義」に属しますが、そもそもジハード(聖戦)という概念はイスラーム全体にとって自明であり、肯定すべき考え方です。
もちろん、ジハードの対象などの考え方などは違います。
しかし、例えば過激派を「非信仰者」として一方的に責めることは、「誰のどの意見が正しいのか」を決めるシステムがない以上、困難なのです。

そこで出てくる「イジュティハード」という概念はおもしろいです。
簡単に言うと「新たな解釈を生み出す」ということですが、イスラームが生まれてから時代の経過とともに「イジュティハード」は少なくなっていき、一時は消滅したともいわれていたそうです。
しかし近代に入り、ふたたび「イジュティハード」が活性化しました。
今やウラマーだけでなく、一般の人も宗教的言論を発信することで「ファトワー・カオス」(「ファトワー」とは教義問答のこと)と呼ばれる混沌とした状況になっているのだそうです。
こういった「動的」なイスラームについて知らなかったので、ちょっと興奮します。
私はイスラームの学問について、いまだに「ホメイニ師」みたいな、えらい人が言うことが正しいとされている、長老型のシステムだと思っていたのです。

イスラームというと私たちと異なる習俗に眼が行きがちですが、この本では知を足がかりにして、イスラーム世界に入っていけます。

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