減糖生活を始めるにあたって最大の障害は、米を食べない(もしくは食べる量を極端に減らす)ことが、なにより感情的に引っかかる点がある。
日本人にとってのソウルフードだから。
『なぜ一流の人はストレスが溜まらないのか』の中で西脇俊二さんは、米を食べる生活は、相対的にみればとても歴史の浅いものだという。
「日本人と言えば米」という信仰にも、非常に根深いものがあります。(位置№677)
そもそも、「日本人=ごはん中心」という伝統が、思い込みにすぎません。炭水化物ばかり食べている現状は、人類史上、きわめて例外的といえます。(位置№853)
農耕を始め、米を食べるようになったのは、わずか2000年前のことです。人類は、その400年万年の歴史のうち、2000年しか米を口にしていないのです。(位置№853)
たぶんこの説明が腑に落ちたのは、このあいだ読んだ國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にこんなことが書いてあったからだ。
西田正規の提唱する「定住革命」をひいて、人が遊動生活から定住生活に生活様式を変えたことによって「退屈」が発生したという推論をしている部分。
略)人類は長きにわたり遊動生活を行ってきた。一所に定住することなく、大きな社会を作ることもなく、人口密度も低いまま、環境を荒廃させぬままに数百万年を生きてきた。ところがその生活様式があるときに大きく変わった。人類は一所にとどまり続ける定住生活を始めたのである。約一万年前のことだ。(p76-77)
定住化の過程は人類にまったく新しい課題を突きつけたことだろう。人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式はどれも遊動生活にあわせて進化してきたものだからである。だとすると、定住化はそれら能力や行動様式のすべてを新たに編成し直した革命的な出来事であったと考えねばならない。(p84)
定住する生活が本来の人間の姿である、という先入観をかっこに入れてしまう部分で、私は少し興奮した。
こういうフーコー的なというか、柄谷行人的に視点を変えることで、それまでの自分の考え方がまるで変わってしまうのが好きなんだなあ、と思う。
くどくど書いてきたけれど、そういう理屈で押し切れば、米を食べないことの感情的な問題はクリアできる。
ただ、それでもやむを得ず食べなくてはいけない場面がとっても多いけれど。
とりあえず二週間続いている。
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