買ったはずの本がどこにあるのか、分からなくなってきた。
最近は電子書籍を当初から買うようにしているのだが、それでもいつの間にか紙の本は増えてしまう。
段ボールなどに入れているわけではなく、なんとか書棚に収まっているのだが、棚一段の前後二列に本を置いている。
当然のことだが、後ろの列になにが入っているか分からないのだ。
本を処分しなくては。
長くブログやっていると、同じことをしていることに気づくわけで。
読まない本、読みそうもない本、再読しない本を手放し、資料や再読しそうな本だけ残す。
残しておくべき本というのは、それほどの数はないはずだ。
厳選して、残りを売ってしまえばよいのである。
俄然強気になって、書棚を見てみる。
いつか読むだろう、と思って取ってある本のうち、トマス・ピンチョン全集は取っておきたい。
あと、サミュエル・ベケットの三部作、これもいつか読みたいな。
古井由吉自撰集も味わい深いにちがいないので、取っておく。
こんなものか、と思い、あとは片付けてしまおうと考えたところで橋本治の「窯変源氏物語」「双調平家物語」が目に入った。
いつか読もうと思って忘れてた。
こんな長い小説?読めるのか。
ロラン・バルト「恋愛のディスクール・断章」も読んでねえ。
マルクスさんの「ルイ・ボナバルトのブリュメール十八日」は混迷深めるこんな時代の今こそ読んどく本じゃないのか。
そういえば竹田青嗣の「欲望論」って苦労して手に入れた割にまったく開いてない。
ドゥルーズ・ガタリ「千のプラトー」っていつか読めるのかなあ。
いつか読めるのかといえば、ジョイスの「ユリシーズ」「フィネガンス・ウェイク」だって買ってはあるぞ。
仕方がないので、読んでない本はとりあえず取っておくことに方針転換する。
では、読んだ本はどうなのか。
村上春樹の小説は全部持っているが、もちろん捨てるわけにはいかない。
人生の大事なタイミングで、何度も読み返してきたから。
カフカ・コレクションももちろん置いておきたい。
ドストエフスキーの長い小説たちだって、一回切りの読書ではもったいない。
大江健三郎の小説も同じくだ。
というか、そもそも探していた本は岩波文庫「大江健三郎自選短編」だった。
まいったな。
なんだか、戦意を喪失した。
若い頃と違って持ち時間がないことから、逆に奇妙な執着心が出てきてしまっているようだ。
書棚攻略に当たり、綿密な計画に基づいた合理的なアプローチが必要である、ということがわかった。